タラワ島と祖父

今日、2022年8月15日は77回目の終戦記念日だ。

1945年8月15日、日本は第二次世界大戦で敗戦した。

ぼんやりした遺影とセピア色の数枚の写真でしか知らない僕の父方の祖父は、大日本帝国海軍の軍人だった。

跡取り息子ではなかったためか、職業軍人として海軍に入った。戦争中は中国大陸に行ったり、駆逐艦に乗船したりしていたそうだ。

どういう流れかわからないが、最後は現在のキリバスの首都があるタラワ島(ハワイとオーストラリアの中間くらいの太平洋に浮かぶ島)の守備隊に入った。

約4800人と言われる部隊の中で、祖父がどのように働き、どのように戦い、どのように命を落としたのかはわからない。

凄惨を極めたタラワの戦いでは、捕虜となったわずかな日本兵を除き、守備隊はアメリカ軍の攻撃で殺されるか、あるいは玉砕という名の自殺(自分の意志であったかどうかわからないが)を遂げた。

いずれにしろ、祖父はタラワで死んだのだ。

そのとき、祖母のお腹の中には叔母がいた。

いま、祖父は形式的には靖国神社に祀られていることになっている。実家にも国から贈られた賞状などがあり、そこには小さな靖国神社の写真が貼られている。

タラワはほぼ赤道直下の常夏の島だ。

母国から遠く離れたその場所で、透明な海と降り注ぐ太陽、そして、沖から艦砲射撃を繰り返すアメリカの軍艦を目にしながら、祖父はいったい何を思っていただろうか。4人目の子どもが生まれてくることは知っていたのだろうか。

僕自身は戦争をまったく経験していないけれど、自分と血のつながった人が太平洋の小さな島で死んだということには生々しい現実感を覚える。初めてその事実を知った少年時代は、夜、眠ることが難しくなった。

累々とタラワ島に横たわる日本兵の亡骸の写真を見たときもそうだった。

その写真の中に祖父はいるのだろうか。祖父はどのように殺されたのだろうか。誰かを殺しただろうか。

おそらく抗いようのない運命という波が、祖父をその島まで押し流していったのだろう。

祖父の耳に、波音以外の何か、爆発音やうめき声や突撃ラッパ以外の何かが聞こえていただろうか……。

戦争は文化を「闇堕ち」させる

僕の実家は神奈川県横須賀市にある。

現在もアメリカ海軍や海上自衛隊がある港町だが、戦争中は国内有数の軍港だった。

横須賀は三浦半島にあり、実家は軍港とは山を挟んだ反対の相模湾側にある。砂浜まで1分もかからない場所で、窓からはいつも海が見える。沖を渡っていく漁船の、少し気の抜けたようなエンジンの音も聞こえてくる。

父に聞いた話だが、敗戦が近づいたころ、軍隊を抜け出した日本兵数人が家の近所まで畑の芋を盗みに来たという。軍隊すら食べるものに困っていたのだろう。

当時小学生だった父は、芋を生のまま食べて腹痛で転げ回る兵隊たちを目にしたそうだ。

横浜で大空襲があった夜は、山の向こうが花火大会でもやっているかのように明るくなった。

近所の人の娘さんが空襲で大火傷を負い、その人はリヤカーを引いて横浜まで娘さんを迎えにいった。

娘さんを連れ帰ってくると、焼けた皮膚や肉のにおいが近隣に漂った。その娘さんの行く末を、父がどう語ったのか、あるいは語らなかったのか記憶にないが、そこまで重度の熱傷を受けて回復したとは思えない。

父は、僕が尋ねても、戦争の記憶についてあまり多くを語ってくれなかった。もともとよく会話をする父親ではなかった。だが、どうやら戦争のことをあまり思い出したくない、語りたくないらしかった。

多くない戦争体験談の中にはこんなものもあった。

父が砂浜で遊んでいるとき、アメリカ軍の戦闘機がやってきて機関銃の斉射を受けた。戦闘機は小学生の子どもを容赦なく攻撃したのだ。父は海に飛び込み、難を逃れた。戦闘機が去った後、走ってきた祖母に抱きしめられたという。

1945年8月16日、玉音放送の翌朝に父が目を覚まして海を見ると、黒い影が見えた。相模湾の向こうには伊豆半島があるはずなのに、そこを黒い影が覆い尽くしていた。すべてアメリカ軍の軍艦だった。

「こんなに日本の近くまで軍艦が集まっていたのなら、負けるのも当たり前だ」と父は思ったという。

77年前の出来事だ。

戦争が終わるまで、欧米の音楽は「敵性音楽」として禁じられた。

1940年には第1回の全日本吹奏楽コンクールが開催されたが、当時のイベント名は「紀元二千六百年奉祝 第1回全日本吹奏樂競演会 集団音楽大行進並大競演会」だった。

第1回の課題曲は《大行進曲「大日本」》、第2回は《行進曲「皇帝の精華」》。そこに軍国主義のにおいを感じないわけにはいかない。

第3回以降は戦争で中断されたが、1956年に晴れて第4回の「全日本吹奏楽コンクール」として復活した際、課題曲にはアメリカ人のジョン・フィリップ・スーザの《エル・キャピタン》などが選ばれていた。

国のあり方の大きな変化が音楽にも表れた。

You may say I am a dreamer…

僕たちは、東日本大震災やコロナ禍を経て、非常事態のときに音楽や文化がどうなるのかを経験した。

ひと言で言うなら、「それどころではない」ものとして追いやられるのだ。

戦争においては、戦意高揚の軍楽隊などの形で戦争に組み込まれるという面もある。そもそも吹奏楽はトルコの軍楽隊からヨーロッパに伝わり、西欧諸国でも同様の形態で発展し、日本にもペリーとともに黒船に乗ってやってきた。

音楽に戦闘意欲を高めたり、相手を威圧したり、集団を統制したりする力があるのも事実だが、戦争に「利用」される音楽はいわば「闇堕ち」したもの、音楽の「ダークサイド」だと思える。

僕たちが音楽の「ライトサイド」を楽しめるのは、平和な日常がそこにあるからだ。

平和が音楽を、文化を生かしてくれる。

逆に、音楽によって平和が生まれ、維持されることもあるだろう。

音楽は言語や人種の違い、国境を飛び越える力がある。リズム・メロディ・ハーモニーという三要素によって、喜びで人間を、心をつなぐ。政治の話では喧嘩にしかならない人々を笑顔にさせ、肩を組ませる力がある。ともに踊り、歌い、手拍子をさせる力がある。

素晴らしい音楽文化を持つ国のことは好きになってしまうし、リスペクトを抱く。もちろん、これは音楽だけでなく、あらゆる文化にも言えることだ。

ビートルズやオアシスによってイギリスを好きになったり、ジャズやヒップホップでアメリカを好きになったり、Kポップで韓国が好きになったり、ショパンでポーランドを好きになったり、ボサノバでブラジルを好きになったりするだろう。

反対に、《上を向いて歩こう》や武満徹や坂本龍一やBABYMETALで日本を好きになってくれた人たちもいることだろう。もしかしたら、吹奏楽を通じて日本を尊敬してくれている人もいるかもしれない。

文学で言うなら、ヘミングウェイでアメリカを、ヘッセでドイツを、ガルシア=マルケスでコロンビアを好きになる。反対に、海外にはきっと村上春樹や川端康成、大江健三郎、松尾芭蕉で日本をリスペクトするようになった人もいるだろう。

素晴らしい文化の発信地となることは、海外からの好感と尊敬を呼び、それが平和の防波堤となる。相互理解の架け橋となる。もちろん、それだけで平和が維持できるなどとは思っていない。

だが、きっと音楽や文化は僕たちを平和の海域へといざなう波となり、風となってくれるだろう。

「音楽で世界を平和に」はきれいごとではない。

だから、僕たちは優れた吹奏楽や音楽、文化の発信地になろう。

波や風を起こすのは、僕たち自身なのだ。

※ちょうどいい画像がなかったため、以前長崎県の活水高校を取材した際に平和公園で撮った写真を使用しました。