いつか自分の力が必要とされるときのために

13年前の今日、3月11日。

東日本大震災が発生しました。

その日のこと、そして、その日から数日間のことはとてもよく覚えています。

僕は東京にいましたが、それでも命の危険を感じるほどの揺れで、直接的な被害はほぼなかったものの、直後にテレビに映し出された黒い波に呑み込まれていく宮城県沿岸の風景には衝撃と絶望を与えられました。

さらに、東北の太平洋沿岸を襲った津波の映像、炎に包まれる千葉のコンビナート、崩壊した家屋や亀裂が入った道路、そして、爆発を起こした福島第一原発。

もう東日本は終わりかもしれない、西日本や海外への移住を余儀なくされ、流浪の民になるのかもしれない……そんな不安を覚えました。

それから数カ月経ち、自分の目で見た津波の被災地。原発事故で通行止めになった道路。放射線量が高いために無人となった飯舘村。放射性物質を吸収するのではないかという期待を込めて植えられたひまわりの黄色。

それらが僕の人生、人生に対する考え方を変えました。吹奏楽の仕事を引き受けようと決めたのも、震災後の暗く沈んだ社会に何か少しでも明るさをもたらしたいという思いからでした。

僕だけでなく、多くの人たちの人生が変わりました。

2011年7月。宮城県、奥松島の嵯峨ビーチホテル。手前のパイプは仮設の水道だと聞いた。
2011年8月。福島市から相馬市へ車で移動する途中に見かけた看板。
2011年8月。新地町付近。ありえない場所に転がっている漁船。
2011年8月。このだだっ広い空間も、かつては住宅などが立ち並んでいたと思われる。遮るものがなくなり、遠くから届く波音が不安を誘う。
2011年8月。釣師浜付近。陸地に消波ブロックや防波堤?の残骸が転がる。
2011年8月。南相馬市。以前は住宅地だったか、あるいは田畑だったのか。コンクリートや鉄骨の残骸が浮かぶ巨大な水たまりに変わってしなっていた。
2011年8月。原発事故で放射性物質が集まるホットスポットになってしまった飯舘村では、持参した線量計が高い放射線量を記録し、アラームが鳴り響いた。
2011年10月。福島第一原発へつながる国道は警察によって封鎖され、関係車両のみが通行できた。このとき立っていた警察官は岐阜県警の方たちだった。

当時、僕は自分の無力さも痛感していました。文章を書くという仕事は、迫りくる震災や津波、原発事故に対して何の力も持たないのではないか。傷つき、苦しむ人々に対して何もできないのではないか。

同じことを多くの文化人や音楽家の方たちも感じていたようです。

結局のところ、「何もできない。だから、一見すると何の役にも立っていないように見えても、自分のできることを精いっぱいやり続けていくしかない」という考えにたどり着きます。

震災直後、あるいは被災地で何も力になれなかったとしても、いつかひょんなところから自分の力が必要とされるときが来るかもしれない。そのときこそ自分の力を余す所なく発揮できるように、目の前にある自分の仕事や自分の周囲にいる人たちのために全力で働く。

それしかないような気がします。

東日本大震災の後も、熊本や大阪などで大地震がありましたし、新型コロナウイルスのパンデミックもありました。洪水などの災害もあれば、海外では大きな戦争も起こりました。そして、今年は能登半島地震が発生しました。

2016年7月。被災した熊本城の天守閣。

いずれのときも、自分の筆の力、言葉の力は無力であるように感じましたが、「いまは自分のできることを」と思って過ごしてきました。

僕が吹奏楽関連の仕事をするようになったのは東日本大震災の後のことです。まさか自分が吹奏楽を仕事にするなどとは思いもしませんでした。

しかし、翌年の2012年には被災地である福島県南相馬市の吹奏楽部員にインタビューをし、2016・2017年にはやはり南相馬市の原町第一中学校吹奏楽部が出演する荻窪音楽祭を取材し、2018年には東日本大震災で被災した岩手県の宮古高校の部員と岡山・真備町の豪雨で被災した岡山学芸館の部員を、2019年には宮城県石巻市で被災を経験した吹奏楽団員を取材することになりました。

2018年7月。被災地である岩手県石巻市の海岸沿いに建設中の巨大防潮堤。まるで城壁のように見える。
2018年7月。石巻市田老地区に残されたたろう観光ホテルの遺構。
2019年4月。宮城県石巻市。

ほかにも、熊本の地震、大阪の地震を経験した高校生たちのインタビューも記事や書籍に書きました。

2021年には、コロナ禍の難しい時期に取材を行い、希望を失わずに活動を続けた吹奏楽部員たちを描いた書籍『吹奏楽部バンザイ!! コロナに負けない』を出版しました。

2020年11月。水戸女子高校吹奏楽部。彼女たちの物語は2023年7月、舞台『ファンファーレ!! 〜響き続けた吹奏楽部の物語〜』として水戸市民会館で上演された。
2020年12月。「一心不乱」で有名な北海道の札幌白石高校吹奏楽部。校内で1人でも感染者が出たら取材は中止と決まっており、ギリギリまで気が抜けなかった。

果たしてそれらの文章がどれほど被災地や傷ついた方たち(直接的な被災者に限らず)の心に寄り添い、復興に寄与できたのかはわかりません。

とはいえ、いろいろなめぐり合わせの末に、これまで培ってきた力を自分なりに発揮できる機会が得られたことで、自分も多少なりとも大きな社会的事件に対して貢献することができたような気がしています。

僕のように執筆を生業としていない方であっても、きっと誰でもそういう機会は得られるのではないかと思います。

3.11から13年。

地理的、季節的な要因もあって能登半島地震の復興がなかなか進まないいま、やはり自分に何ができるだろうと問い続けながら、いつか力を発揮できるときのために、自分を磨き続けていこうと思います。